伏見宮の家系図!子孫は断絶?現在の当主・伏見博明氏の妻や子供は?

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pierre9x6 / Pixabay

伏見宮家の家系図は?伏見宮貞愛親王や伏見宮博恭王の妻や子供、息子や娘は?現在の当主は伏見博明氏!男系子孫は断絶?

旧皇族の
伏見宮(ふしみのみや)家。

伏見宮家は
戦後、皇族から平民になった11宮家のなかで
もっとも歴史が古く、

11宮家のうちの本家である、
伏見宮家。

伏見宮家は、
皇族軍人として海軍との関係が深く、
海軍の宮様として、知られていました。

この記事では
伏見宮家の家系図や子孫、
伏見宮家の当主の妻や子供、といった家族について、
見ていきたいと思います。

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伏見宮家の創設は南北朝時代

伏見宮家の歴史は、
南北朝時代までさかのぼります。

北朝第三代崇光天皇の皇子である
伏見宮栄仁親王(1351-1416)が初代当主です。

伏見宮家は、
男系でさかのぼると、3代目の伏見宮成親王(1372-1456)が、

現在の皇室との、最も近い共通の祖先であり、
現在の皇室とはかなり遠い親戚という関係になります。

伏見宮家は旧皇族でありながら、
徳大寺家や華園家、梶野家などのほうが
男系としては皇室より近い関係というのは意外な事実です。

皇別摂家とは?子孫や家系図?皇位継承順位と旧皇族や華族との関係は?

伏見宮邦家親王の息子たちが、7つの宮家を創設

伏見宮家の家系図を順に見ていきましょう。

伏見宮家の幕末から明治初期の当主、
伏見宮邦家(1802-1872)親王の子供たちについて、
はじめに確認します。

伏見宮からは多くの宮家が出ています。

伏見宮邦家親王の子供たちを整理すると、
このようになります。

*伏見宮邦家親王の息子たち*

山階宮晃親王

久邇宮朝彦親王

伏見宮貞教親王

伏見宮貞愛親王

小松宮彰仁親王

北白川宮能久親王

清棲家教伯爵

閑院宮載仁親王

東伏見宮依仁親王

華頂宮博経親王

伏見宮家からは、
7つの宮家が「分家」しているのです。

伏見宮邦家親王の息子のなかで、清棲家教だけは臣籍降下した

山階宮家・久邇宮家・小松宮家・北白川宮家・閑院宮家・東伏見宮家・華頂宮家の創始者は、
すべて、伏見宮邦家親王の息子たちです。
これらの宮家は、
もともとは創設者のみの一代限りの宮様だったようですが、
明治22年に、宮家創設者の子孫も皇族になるように制度がととのえられました。

清棲家教(きよすいえのり)だけは、
宮家を創設していません。

清棲家教は、真宗仏光寺派門主の渋谷家の養子とって、
第26世門主、渋谷家教となっていたのですが、
伏見宮家に復籍して、その後、清棲伯爵家を創設しています。

伏見宮邦家親王の娘たち

伏見宮邦家親王の娘たちはどういった方がいるのでしょうか。

*伏見宮邦家親王の娘たち*

恒子女王
二條斉敬と結婚 ※五摂家で維新後は公爵家

順子女王
一條忠香と結婚 ※五摂家で維新後は公爵家

和子女王
大谷光勝と結婚 ※東本願寺法主家で維新後は伯爵家

則子女王
侯爵徳川茂承と結婚 ※紀州藩主家で維新後は侯爵家

貴子女王
子爵松平忠敬と結婚 ※武蔵忍藩主家で維新後は子爵家

伏見宮邦家の娘たちも、
それぞれ名門の公家や大寺院門跡、藩主に嫁いでいます。

伏見宮貞愛親王の家系図

つづいて、
伏見宮邦家親王の跡継ぎである息子、
伏見宮貞愛(さだなる 1858-1923)を中心とした家系図を見ていきます。

伏見宮貞愛親王(ふしみのみや・さだなるしんのう) 1858-1923
伏見宮邦家親王14男
元帥陸軍大将
内大臣

妻:伏見宮利子女王
安政4、有栖川宮幟仁親王女子

長男:伏見宮博恭王(後継者)
明治8

次男:伏見宮邦芳王(くにかおう)
明治13

長女:伏見宮禎子女王(さちこじょおう)
明治18
旧土佐藩主家、侯爵山内豊景と結婚

伏見宮貞愛親王は、
伏見宮邦家親王の14男でしたが、
兄の伏見宮貞教親王の早世により、
父親である伏見宮邦家親王の後を継いで、伏見宮家の当主になりました。

伏見宮博恭王の家系図

伏見宮貞愛親王の跡継ぎが、
伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)親王です。
伏見宮博恭王は海軍大将、元帥、
海軍軍令部総長までつとめた人物であり、
皇族軍人のなかでも特に実力があった方です。

伏見宮博恭王 1875-1946
伏見宮貞愛親王長男
元帥海軍大将
議定官、軍令部総長

妻:伏見宮経子
明治15、公爵徳川慶喜九女

長女:伏見宮博義王(後述)
海軍兵学校卒
海軍大佐

長女:伏見宮恭子女王
明治31
侯爵浅野長武と結婚

次男:伏見宮博忠王
明治35
海軍兵学校卒
海軍中尉
華頂宮に入り、当主を継承する

三男:伏見宮博信王
明治38
海軍兵学校卒
海軍大学校卒
海軍大佐
華頂侯爵家を創立し華頂博信と名乗る

次女:伏見宮敦子女王
明治39
伯爵清棲幸保と結婚

三女:伏見宮知子女王
明治39
久邇宮朝融王と結婚

四男:伏見宮博英王
大正元年
海軍兵学校卒
海軍少佐
伏見伯爵家を創立し伏見博英と名乗る

伏見宮博恭王の妻は徳川慶喜の娘

伏見宮博恭王の妻は、
徳川家最後の将軍である徳川慶喜の娘にあたります。

伏見宮博恭王の息子は4人いて、
全員が海軍軍人となっています。

伏見宮博恭王の長男が、
伏見宮博義王ですが、
長生きだった父親の伏見宮博恭王よりも早世しているので
伏見宮家当主にはなっていません。

伏見宮博恭王の息子、博義王の妻と子供、家族構成

伏見宮博義王の妻や子供、家族構成を見ていきます。

伏見宮博義王 1897-1938
明治30、伏見宮博恭王長男
海軍兵学校卒
海軍大佐

妻:伏見宮朝子妃
公爵一條実輝三女

長女:伏見宮光子女王
昭和4
参議院議員、尾崎行輝さんの息子、日本航空顧問・尾崎行良さんと結婚

長男:伏見宮博明王(後継当主)

次女:伏見宮令子女王
昭和8
早世

三女:伏見宮章子女王(あやこじょおう)
昭和9
サッポロビール勤務・草刈廣さんと結婚

伏見宮博義王の妻は
五摂家のひとつである、公卿の名門、一条家の娘さんでした。

伏見宮博義王の長女は、
衆議院議員の尾崎行雄の孫である尾崎行良さんと結婚しています。

伏見宮博義王の息子は、
長男のみで、
現在の伏見宮家当主の
伏見宮博明王(戦後は伏見博明さん)です。

伏見博明さんが伏見宮家子孫で、現在の当主

伏見博明さんは、
1932年生まれで、
祖父の没後、14歳で伏見宮家当主となられました。

伏見博明さんは、
現在の伏見家当主であり第26代当主にあたります。

伏見博明さんは、
戦後、臣籍降下されて、皇籍をはなれました。

伏見博明さんは
マサチューセッツ工科大学留学を経て、
モービル石油に勤務され、退職後は顧問をつとめられています。

伏見博明さんは
2001年に、日本文化振興会総裁となられています。

伏見博明さんの妻は?子供は娘?男系子孫の断絶を懸念

伏見博明さんの妻は、
伏見和子さんというお名前でして、
吉川興機社長の吉川武さんの三女にあたられます。

伏見博明さんの子供は
3名いらっしゃいますが、
全員が娘さんであり、息子さんがいないため、

現状では、
南北朝時代の伏見宮家創設以来続いていた、
伏見宮家の男系の嫡流で最後の方ということで、
断絶が懸念されているようです。

南北朝時代以来、26代にわたって
男系相続された伏見宮家が断絶の危機にあるというのは、
とても残念なことですね。

伏見博明さんの家系図

伏見博明さん
1932年生まれ
マサチューセッツ工科大学留学
モービル石油顧問
日本文化振興会総裁

妻:伏見和子さん
吉川興機社長・吉川武さん三女

長女:伏見朗子さん
1959

次女:伏見宣子さん
1961

三女:伏見雅子さん
1964

伏見博明さんは、
旧皇族であった身分の方では最長老であり、
戦前の皇族の生活、暮らしぶりや、
祖父、伏見宮博恭王のことなど、
貴重な証言をされています。

というわけで、
伏見宮家の家系図や子孫、
伏見宮家の当主の妻や子供、といった家族について、見てきました。

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