有栖川宮家の家系図と子孫の現在! 有栖川宮熾仁親王の妻や子供は?

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HeungSoon / Pixabay

有栖川宮熾仁親王、有栖川宮威仁親王の妻や子供は?有栖川宮家の家系図と現在の子孫は?

有栖川宮家(ありすがわのみやけ)。

皇族であり、
江戸時代前期から大正時代まで存続した、宮家です。

有栖川宮家は、
幕末に徳川幕府を倒すために
活躍したこともあり、
歴史ドラマなどでもよく見られます。

また、
数ある旧宮家のなかでも、
皇位継承順位が特段に高いものの、
廃絶してしまった宮家ということで、
注目されることもあり、
想像を飛躍させて「ご落胤」のうわさが持ち上がることも
たびたびあるようです。

この記事では
有栖川宮家の家系図や現在の子孫に関係した事柄を、
確認していきたいと思います。

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有栖川宮家の創立

有栖川宮家の創立は、
江戸時代前期の1625年のことでした。

後陽成天皇の第七皇子である好仁親王による創設です。
当初は、有栖川宮という名前ではなく、
高松宮という名前でした。
その後、花町宮とも名乗り、

「有栖川宮」と宮号を変更するのは、
1672年、有栖川宮幸仁親王の時代のことです。

有栖川宮家の初期の当主の名前は、
1代 高松宮好仁親王
2代 花町宮良仁親王 (のちに後西天皇となる)
3代 有栖川宮幸仁親王
となります。

有栖川宮家の歴代当主の名前は?大正時代に家系は絶えてしまった

有栖川宮家は以降も子孫に恵まれて、
継承されていきます。

江戸時代中期から後期の
有栖川宮家の歴代当主には
4代 有栖川宮正仁親王 (ただひと)
5代 有栖川宮職仁親王 (よりひと)
6代 有栖川宮織仁親王 (おりひと)
といった方がいます。

有栖川宮家の幕末の当主は、
7代 有栖川宮韶仁親王 (つなひと)
8代 有栖川宮幟仁親王 (たかひと)
であり、
それから明治時代に
9代 有栖川宮熾仁親王 (たるひと)
10代 有栖川宮威仁親王 (たけひと)
と続き、

有栖川宮威仁親王に後継者が無かったことで、
有栖川宮家は断絶となりました。

有栖川宮熾仁親王と皇女和宮の関係

有栖川宮家の歴代の方ですと、
9代目の幕末から明治時代に活躍した
有栖川宮熾仁(たるひと)親王が特に有名です。

有栖川宮熾仁親王は、
1835年に生まれ、仁孝天皇(明治天皇の祖父)の皇女である、
和宮と婚約していました。

しかし、
江戸幕府と公家社会の政治的な思惑もあり、
有栖川宮熾仁親王の婚約者だった和宮は、
江戸幕府14代将軍・徳川家茂と結婚することになりました。

和宮と婚約破棄になってしまった
有栖川宮熾仁親王にとっては、
とても不本意だったことでしょう。

有栖川宮熾仁親王は倒幕派勢力に…

有栖川宮熾仁親王は、
その後、薩長系の倒幕派の勢力に担がれて、
幕府を倒すため、東征大総督という地位につきます。

現在でも港区南麻布の
有栖川宮記念公園には、
有栖川宮熾仁親王の銅像がありますが、
こうした倒幕に協力した事実が、
有栖川宮熾仁親王の名声を高めることに繋がったのです。

有栖川宮熾仁親王の妻と結婚について

有栖川宮熾仁親王の家族や妻、
子供について見ていきましょう。

有栖川宮熾仁親王は、
先ほど書いたように
仁孝天皇の皇女、和宮と婚約破棄になっています。

有栖川宮熾仁親王が結婚をして、
妻を迎えたのは、
明治3年(1870)のことでした。

有栖川宮熾仁親王の妻は、
水戸藩主の徳川斉昭の娘である徳川貞子です。

有栖川宮熾仁親王が、
35歳の時のことです。

当時としてはかなり晩婚でしたが、
有栖川宮熾仁親王の結婚が遅れた理由については、
皇女和宮との婚約破棄があったこと、
それから
倒幕や明治維新があったため、
婚期が遅れたという見方がされています。

有栖川宮熾仁親王の後妻は?子供はいる?

その後、
有栖川宮熾仁親王は、
妻の徳川貞子が結婚2年目で
早くなくなってしまったために、
後妻をもっています。

有栖川宮熾仁親王の後妻は、
新発田藩主、溝口直諒の孫である、
溝口董子です

溝口董子は、
有栖川宮熾仁親王の先妻の徳川貞子とは、
はとこの関係にある方です。

しかし
有栖川宮熾仁親王は
2人の妻とのあいだに、
子供に恵まれることはありませんでした。

有栖川宮威仁親王の妻と子供

有栖川宮熾仁親王の後、
有栖川宮家を継いだのは、
有栖川宮熾仁親王の弟にあたる
有栖川宮威仁(たけひと)親王です。

有栖川宮威仁親王は、
1862年生まれ。

有栖川宮威仁親王の妻は、
旧加賀藩主の前田慶寧の娘である、
前田慰子(やすこ)です。

有栖川宮威仁親王は妻との間に
3人の子供に恵まれました。

娘が2人、息子が1人です。

有栖川宮威仁親王の孫娘にあたるのが、高松宮喜久子妃

有栖川宮威仁親王の長女、
績子女王は生後1年でなくなり、

有栖川宮威仁親王の息子、
有栖川宮栽仁王(たねひと)は20歳でなくなり、
これで有栖川家は後継者をなくし、
廃絶されたのでした。

なお、
有栖川宮威仁親王の次女・実枝子さんは、
徳川慶久公爵(徳川慶喜の息子)の妻となり、
のちに高松宮宣仁親王の妻となる、
喜久子妃がお生まれになっています。

有栖川宮家の男系子孫は存在するのか?

有栖川宮家の男系子孫は存在するのか、
といったことについて詳しく見ていきましょう。

よく話題になる
皇位継承順位ということであれば、
有栖川宮家の男系子孫がいた場合、
かなり上位になるので、
よく注目されるので検証していきます。

有栖川宮家の5代目、
有栖川職仁親王(1713-1769)は
霊元天皇(1654-1732)の皇子ですので、
有栖川宮家は、
江戸時代前期の天皇の系統から見ると
男系男子ということになります。

有栖川宮家から他家に養子にいった男子は、
有栖川宮家が廃絶する大正時代までに、
わずか2名しかおりません。

有栖川宮家の男系子孫は、どちらとも途絶えた

5代目、有栖川宮職仁親王(よりひと)の長男、
音仁親王の息子で、
真宗高田派専修寺の住職、円猷の養子となった
円遵と、

7代目、有栖川宮韶仁親王(つなひと)の息子で、
西園寺家に養子に行った
西園寺公潔です。

しかし、
円遵も、西園寺公潔とも、
ともに息子がいないので、

有栖川宮家の男系の子孫は、
家系図を見る限り存在しないことになります。

有栖川宮熾仁親王と、出口王仁三郎氏のご落胤伝説

また、
有栖川宮家の子孫としては、
有栖川宮熾仁親王の「ご落胤」に、
大本教の教祖様だった出口王仁三郎氏がいる、といったうわさもあるようで、
ウィキペディアなどにも書かれています。

出口王仁三郎氏の有栖川宮熾仁親王ご落胤説については、
当時の宮内省(現在の宮内庁)が、
意に介さなかったこともあり、
この説については
客観的な事実のない
伝承の域を出ないものだと判じられることが多いようです。

有栖川宮家以外で、ご落胤として認められた例はあった

宮家のご落胤として認められた例としては、
明治時代中頃に、
北白川宮能久親王の2人の子供、
旧姓山本芳之さんと、旧姓永田正雄さんが、

宮内省の厳密な調査のもと、
北白川宮能久親王のご落胤として、
認められた例があります。

2人の子供はそれぞれ、
二荒芳之、上野正雄と改名し伯爵に叙されています。

というわけで、
有栖川宮家の子孫や家系図、現在の子孫に関する事柄を、
見てきました。

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