江戸時代の武士の人口構成比率
江戸時代に武士の人口比率はどれくらいだったのでしょうか。
結論からいえば、約7%とされています。
なぜ、7%という数字が算出されるのかというと、明治の初めに調べたからです。
明治3年(1870年)に調査されたものもありますし、明治5年(1872年)以降に調査された、壬申戸籍の族籍別人口を見ても分かります。
士族・卒族の割合から調べる
壬申戸籍の調査では、明治5年時点で士族は約128万人(人口比3.9%)、卒族は約66万人(2.0%)です。ちなみに当時の人口は約3300万人でした。
「士族」や「卒族」には、武士の家族も含まれているのに注意しましょう。
「士族」と「卒族」の違いについては、上級の武士が「士族」となり、下級の武士が「卒族」になったと、とりあえず理解しておきましょう。(その後、卒族は、士族に編入されたものが多い)
つまり、士族の人口割合(3.9%)と卒族の人口割合(2.0%)を足したものが、武士の人口と言えそうです。
しかし、足しても5.9%となり、先ほどの「約7%」という数字には少し足りません。
なぜでしょうか?
士族・卒族になれなかった武士を考慮
その理由は、明治維新で「賊軍」とされてしまった東北諸藩の藩士などで、本来ならば「士族・卒族」として処遇されるべきものが、「平民」になったものがいたからです。
実際には、もう少し多いわけです。
こうしたことも考慮すると、約7%という数字が現実に近いのではないかと思われます。
「武士」といっても、定義は曖昧
しかし、「武士」といっても、その定義はわりと曖昧な部分があります。
武士には、「侍・徒士(かち)・足軽」と大きく分けて、三つの階級がありましたが、その定義は諸藩によって大きく異なります。
また、これらの下に中間(ちゅうげん)や小者(こもの)といった、武家奉公人といった階級のものもいます。
武家奉公人は一般的には武士ではないのですが、なかには武士として認められていたものもいたのです。
武家奉公人のような存在を「武士」として含めると、実際には武士の割合はもっと多かったということになります。
江戸時代中期から幕末まで一定の割合だった
江戸時代、武士は特権階級として処遇されていました。
多くの組織がピラミッド状に構成されるという一般的な事実に相違なく、武士の人口構成比率は少なめですね。
日本の人口は、江戸時代中期(1700年頃)から明治維新まで、約2500万人から3000万人くらいで安定していました。
武士の数が増えることは制限されていたので、人口構成比率も、この間ほぼ一定だったと考えられます。