東本願寺と西本願寺、東西に分かれた理由はなぜ?教如上人?徳川家康?石山合戦?
東本願寺と西本願寺、
京都下京区の町の東西に分かれた同じ名前の寺院ですが、
なぜこのようにふたつにわかれているのでしょうか。
京都に観光に行く方ならば
誰もが一度は思うはずです。
歴史書をひもとくと、
もともと、東本願寺も西本願寺も
同じ起源をもっていることが分かります。
なぜ、
同じ起源をもつ寺院が
分立する状態になったのか。
この記事では、
なぜ、東本願寺と西本願寺が分立した理由を、
考察していきます。
東本願寺と西本願寺が分立した時代はいつ?
東本願寺と西本願寺が、
分立するに至った時代は、
桃山時代の本願寺門主の
教如上人が、豊臣秀吉の要請によって、
後継を弟の准如上人に譲り、引退したころです。
教如上人は表向きは
門主を引退したのでしたが、
実際には、門主としておこなうべき活動を、
おこなっていたといわれています。
この頃には、
教如上人を支持するグループと、
准如上人を支持するグループと、二つに分かれ、
お互いをけん制し合うような状態になっていたのでした。
東本願寺を分立させたのは、教如上人?徳川家康?
東本願寺は、教如上人によって立てられました。
江戸時代のはじめ、
関ケ原の合戦で功績のあった、
教如上人にたいして、徳川家康が論功行賞をおこなった、
という意味合いがあるでしょう。
こうした事実があるゆえに、
本願寺の東西分立は、
徳川家康が本願寺勢力の分断をはかって、
教如上人に東本願寺を建てるように仕向けた、とする俗説があります。
しかし、
この説は間違いだと見られます。
東本願寺と西本願寺が分立した時代はいつ?
本願寺勢力の派閥は、
教如上人を支持するグループと准如上人を支持するグループとに、
ふたつに分かれていたことは、
さきほど書きましたが、
本願寺内のふたつの勢力による対立構造は、
もっと古くからあり、
実際には、
石山本願寺に籠城して織田信長と戦っていた時代には、
顕如上人を中心とする和睦派と、教如上人を中心とする抗戦派と、
ふたつにわかれていたのでした。
石山本願寺の戦いは、
結局、織田信長の要求を受け入れて講和をしたわけですが、
ふたつの勢力のあいだで、
もはや本願寺は一枚岩とは言えない状態に陥っていて、顕如上人によって、抗戦派だった勢力は、徹底的にやりこめられていました。
そうした勢力をうまくまとめあげたのが、
教如上人でした。
これが現在の東本願寺、真宗大谷派の起源です。
東本願寺の分離独立は、
これまでにあった対立構造を追認しただけにすぎず、
徳川家康が二つにわけさせた、というものではないのです。
東本願寺と西本願寺が分立した原因は、石山合戦
教如上人による東西本願寺分立の功績
東本願寺は、教如上人によって立てられました。
本願寺の東西分立は、徳川家康が本願寺勢力の分断をはかって、
教如上人に東本願寺を建てるように仕向けた、とする俗説がありますが、
実際には、
石山本願寺に籠城して織田信長と戦っていた時代には、
顕如上人を中心とする和睦派と、教如上人を中心とする抗戦派と、
ふたつにわかれており、
結局は、織田信長の要求を受け入れて講和をしたわけですが、
ふたつの勢力のあいだで、もはや本願寺は一枚岩とは言えない状態に陥っていて、顕如上人によって、抗戦派だった勢力は、徹底的にやりこめられていました。
そうした勢力をうまくまとめあげたのが、
教如上人でした。
そして、分立をスムーズにおこなわせたのは、時の最高権力者である徳川家康なのでした。
これが現在の東本願寺、真宗大谷派の起源です。