大隈重信は明治14年の政変で伊藤博文ら長州藩閥と対立して下野した

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大隈重信と明治14年の政変!黒田清隆の北海道官有地をめぐる疑獄と、伊藤博文、山縣有朋との関係

大隈重信は、
明治維新の元勲の一人とされています。。

大隈重信は
1838年生まれ。
伊藤博文と山縣有朋は
1841年生まれであり、
同世代にあたり、明治維新から明治初期の新政府作りを担当してきた仲間でありました。

しかし、
大隈重信は、
伊藤博文や山縣有朋らと対立することもありました。

今回は
大隈重信と明治14年の政変について書いてみます。

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大隈重信は、黒田清隆の汚職を福沢諭吉に報告

大隈重信が、
伊藤博文や山縣有朋らとたもとを分かつことになった原因は、
黒田清隆の疑獄事件でした。

黒田清隆は、
北海道開拓次官、開拓長官という立場にあり、
北海道への入植を担当する部署の責任者でした。

黒田清隆は、
国が持つ土地を、相場の10分の1の値段で売りつけたという疑惑がもちあがり、
それを、
大隈重信が、福沢諭吉に伝え、
福沢諭吉は新聞で、黒田清隆のしたことを書きたてました。

大隈重信と佐賀藩が、薩長から遠ざけられた理由

黒田清隆は薩摩藩出身であり、
伊藤博文や山縣有朋と近い立場にありました。

そうしたこともあって、
伊藤博文らは、
この機会に佐賀藩出身の大隈重信を遠ざけておこうと、
考えるようになりました。

佐賀藩といえば、
維新の功労があった諸藩のひとつであり、
薩長土肥といわれましたが、
江藤新平の佐賀の乱の影響もあって、
薩摩や長州からは、遠ざけられる立場にあったのでした。

大隈重信は明治14年の政変で下野したが、人気は高まった

そうしたこともあって、
大隈重信を遠ざける形で、
伊藤博文、山縣有朋らは、国民の反発を受けて、
新しい政治制度、内閣制度をつくっていくことをかかげていくわけでした。

大隈重信は、
この明治14年の政変で政府の中枢からは去ったのですが、
かえって国民的な支持は高まったようで、
のちに、
2回の内閣を組織する人気の下地を、つくったことになります。

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