明治時代~戦前の女学校における女子教育を、カリキュラムの変遷から考察する
戦前の女子教育は、高等女学校によっておこなわれていました。
高等女学校は、現在の高校に相当する教育機関です。
当時は、義務教育は小学校まででしたので、高等女学校に進学するものは、わずかしかいませんでした。
こちらの記事では、文芸評論家・斎藤美奈子さんの『モダンガール論』を参考にしながら、高等女学校のカリキュラムを通じて、戦前の女子教育の在り方と、その変遷について述べていきたいと思います。
明治時代の女学生は何を勉強したのか?女学校の教育の特徴とは?
明治時代の女子教育は、男子教育とはまったく異なったものでした。
男子が学ぶ旧制中学と比較すると、科目や授業時間数に大きな違いが見られるのです。
歴史・地理・図画・体操については、男子と同じ授業時間数が充てられています。
しかし、旧制中学の「国語及び漢文」・「博物」・「物理及び科学」については、「国語」・「理科」の二科目に抑えられ、旧制中学では必修科目の「外国語」も選択科目という扱いでした。
また、女学校の科目として特徴的なのは、「家事」・「裁縫」・「音楽」が設けられていたことです。
特に「裁縫」は週四時間あり、「国語」に次ぐ重要科目でした。
このようなカリキュラムを見ると、高等女学校は、勉強をする場所であるとともに、花嫁学校としての要素も兼ね備えていたということが分かります。
大正時代の女学校における「女子教育」の変化
その後、大正時代になると、女子教育が変化します。
スポーツ教育が充実されることになり、体操・舞踏・テニス・水泳・散歩・旅行・登山などが奨励され、運動会や遠足が催されるようになったのです。
ちょうどこの頃、袴からセーラー服へと高等女学校の制服がモデルチェンジした時期でもあります。
女子教育の変化によって、女学生の就職が奨励された
また、女子の就職が奨励されるようになりました。
女子が職につくことが奨励されたのは、以下の三つの理由がありました。
・職業は女性自身の人間形成に役立つこと
・職につくことは夫への理解を助け、母・妻としての役目を果たす上で、役立つこと
・女性が職業につくことは、国家にとって有益なこと
良妻賢母思想が変質したものとして捉えることもできると思います。
「良き妻、賢い母になるのを目的として、家事育児に妨げにならない範囲で」女子の就職が奨励されたというわけです。
現代の価値観からすると、古くさい考えのように見えますが、大正時代に女子の就職が奨励されたというのは、かなり意外な気がしますね。
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