財津和夫さんの家系調査
今回のファミリーヒストリーでは財津和夫さんの先祖を調べていました。
いつも通り、番組の内容に関して、専門的な知識をまじえながら、まとめていきたいと思います。
財津(ざいつ)というのは、珍しい苗字です。
九州に見られる苗字なのですが、財津和夫さんのルーツもやはり熊本県にあるそうです。
しかし、財津和夫さんによれば、「財津という苗字は父の代からで、ほかの親戚は全員緒方を名乗っている」そうです。
一体どういった事情があったのでしょうか?
祖父・緒方民平の履歴書
まず番組では、財津和夫さんの祖父・緒方民平を調べています。
財津和夫さんの実家には、祖父が書いた履歴書と戸籍謄本が保管されていました。
こうしたものが保管されていると、先祖を調べる際にとても役に立ちます。
先祖由来のものは、できるだけ保存をこころがけたいものです。
士族かどうか調べる方法
履歴書によれば、財津和夫さんの祖父・緒方民平は慶応3年に熊本城下で生まれたということです。
番組では「有禄士族基本帳」のなかに緒方民平の父・緒方小平太の名前を見つけました。
「有禄士族基本帳」は、士族の名簿のようなものです。
明治時代初期には、県が士族に対して俸禄を支給していたので、こうした書類が作成されたのです。
こうした資料を探せば、「先祖が士族だったのか」が分かります。
下級武士だった財津和夫さんの曽祖父
緒方家の禄高は、10石と書かれています。
番組では、専門家の方が「士族として最低ランク」と評していました。
この禄高では、生活していくのも大変だったろうと思います。
江戸時代の「武士」というと、「農民」よりも豊かな暮らしをしていたようにイメージしてしまいがちですが、実際はそうでもありません。
もちろん武士の中には裕福な者もいましたが、武士も、農民と同じように貧しかったのです。
祖父・緒方民平の立志伝
財津和夫さんの祖父は、貧乏だったので小学校に通えず、校庭から教室の窓をのぞき込んで、授業を見ていたそうです。
それを不憫に思った教員がいて、小学校への入学を許可されることになります。
13歳の時にやっと小学校に入れたのです。
現在でも貧困児童の問題が指摘されるようになってしまいましたが、それでもやはり明治時代とは次元が異なっています。
当時は小学校に行かれない人もたくさんいました。
番組では、「小学校を出られるか、どうか」というのは、人生を左右する、とても重要な問題だったと解説が加えられていました。
財津和夫さんの祖父・緒方民平は、小学校を出ると警察官になり、福井県に赴任しました。
その後、明治32年に文官普通試験に合格し、熊本県の職員に採用されたのです。
現在でいうと、「地方公務員」ということになります。
参照記事
地方公務員だった先祖の家系図作成調査
朝鮮に渡った祖父
その後、明治41年に朝鮮にわたり、農場経営に乗り出します。
番組では、大正7年の新聞で取材を受けているのを見つけています。
こうしたものを見つけるのは、とても大変な作業です。
ファミリーヒストリーでは、しばしばこうした調査をおこなっていますが、容易にできるものではありません。
莫大な製作費がかけられているからこそ、可能な調査だと思われます。
財津姓のルーツとは
その後、番組では財津姓のルーツについて調べています。
祖父・緒方民平は、二男・国平に財津姓を継がせました。この国平の子どもが、財津和夫さんなのです。
冒頭で、「財津という苗字は父の代からで、ほかの親戚は全員緒方を名乗っている」と書きましたが、この理由を番組では探っていました。
実は、貧困のため小学校に通えなかった祖父・緒方民平を、小学校への入学をとりはからってくれたのが、財津さんなのです。
その財津家が途絶えることになり、旧恩に報いようと、財津家を継がせたということです。
財津一郎さんと親戚だった
財津家の家系については、熊本藩の「先祖附」の調査によって、明らかにされました。
それによると、財津家も武士の家柄で、先祖は九州の戦国大名・大友宗麟の家臣だったといいます。
さらに調べてみると、先祖は財津永季という人物で、相撲の神様として神社に祭られていました。
財津家の親戚筋を調べると、俳優の財津一郎さん(本名・財津永栄さん)がいることも分かりました。
財津家は代々「永」の字を継いできたようですね。これを「通し字」といいます。
参照記事
通字と襲名について
今回のファミリーヒストリーは
今回のファミリーヒストリーも面白かったですね。
個人的には、熊本は藩士の記録が充実しているので調べやすい、という印象を受けました。
次回の放送も楽しみにしたいと思います。