福沢諭吉の子供と妻!娘の結婚に婿の身分で反対?父親と母親は?

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MandrillArt / Pixabay

福澤諭吉は娘婿の身分で結婚に反対?子供の名前や人数は?父親と母親、妻は?

福沢諭吉は、
1万円札の肖像であり、
日本人なら誰もが知っているような人物です。

福沢諭吉の創設した
慶應義塾大学は、
現在にいたるまで多くの人材を輩出し、
財界や政界などで
活躍する方が多いですね。

福沢諭吉の思想は、
学問のすすめや、文明論の概略などで、
学ぶことが出来ますが、
現在でも多くの方に読まれており、
とても偉大な方だったのだと思います。

この記事は
福沢諭吉の父親や母親や、
妻や子供、
娘の結婚相手についてのエピソードなどを見ていきたいと思います。

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福沢諭吉の父親の身分は、中津藩士!母親の名前は?

福沢諭吉の父親と母親について、
はじめに見ていきます。

福沢諭吉の出身は、
今の大分県の中津藩です。

福沢諭吉の家系は、
武士の家系でしたが、
それほど身分の高い家柄ではなかったようです。

福沢諭吉の父親の名前は
福沢百助といいました。

福沢諭吉の父親は、
儒学者であり、
学者肌の人物だったようです。

福沢諭吉の母親の名前は、
順といいました。

福沢諭吉は、
兄弟の末っ子だったので、
父親とは42歳、母親とは30歳違いました。

福沢諭吉の子供の人数は?

さて、
福沢諭吉の子供はどんな方たちなのでしょう。

福沢諭吉の子供の人数を
はじめに見ていきます。

福沢諭吉の子供は
9人いました。

福沢諭吉のように
江戸時代後期、
1835年生まれの方ですと、
子供の人数が9人というのは多い方です。

福沢諭吉の家系図は?妻や子供は?

それでは
福沢諭吉の家系図を見ていきます。

福澤諭吉 1835-1901
旧中津藩士:福澤百助二男
旧中津藩士、幕府旗本
思想家、慶應義塾創設者

妻:錦
中津藩士、土岐太郎八二女

長男:一太郎
文久3
慶應義塾社頭

次男:捨次郎
慶応元年
慶應義塾卒、ボストン大留学
時事新報社長

三男:三八
明治14
同妻・スガ
明治23、衆議院議員、鶴原定吉女

四男:大四郎
明治16
慶應義塾政治科卒
時事新報社取締役

長女:さと
明治元年
新潟、衆議院議員、中村貞吉と結婚

次女:ます
埼玉、福澤桃介を婿にむかえる

三女:しゆん
明治6
高知士族・清岡邦之助と結婚

四女:タキ
明治9
大阪、興銀総裁、志立鉄次郎と結婚

五女:光
明治12
工学士、潮田伝五郎と結婚

福沢諭吉の妻は、中津藩の上級武士の身分

福沢諭吉の妻は、
福沢諭吉と同じく中津藩士の娘でした。

江戸時代においては、
同じ藩の武士同士で結婚することが多かったので、

福沢諭吉の夫妻も、
中津藩士同士で結婚したようです。

しかし、
福沢諭吉の家柄からすると、
妻はかなり身分が高い武士だったようです。

福沢諭吉の妻の実家の
土岐家は250石取りの上級武士でした。

福沢諭吉は、
結婚当時、幕府に仕えていたので、
そうしたことが評価されての結婚だったのでは、と、
言われているようです。

福沢諭吉は、娘の結婚相手を「武士身分でないから」という理由で断った

福沢諭吉の子供は、
4人の息子と5人の娘がいました。

福沢諭吉というと、
娘の結婚に際して、
婿となる結婚相手の家柄が、
士族(旧武士身分)でないことを理由に断った、
というエピソードが有名です。

福沢諭吉の有名な言葉として代表的なものに、
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず…というものが
あるので、

福沢諭吉が、
旧武士身分でないことを理由に、
娘の結婚に反対したというのは、
言行不一致だということがよく言われています。

福沢諭吉の娘の結婚をめぐる話は、門閥主義?

ただし、
福沢諭吉の有名な言葉は、
福沢諭吉本人の思想を語ったものではなく、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といった言葉があるよ、と、
『学問のすすめ』のなかで、示されているにすぎず、
福沢諭吉の、
思想をそのまま語ったものではないようです。

福沢諭吉は、
門閥主義を批判し、実力主義でいくべきだ、といった考えを示しています。

ともあれ、
福沢諭吉が娘の結婚を、
相手が士族出身ではない、といったことを理由に断った、
というエピソードは、
まさに門閥主義ではないのか…と批判されそうですね。

福沢諭吉の娘は結局、旧武士身分ではない人と結婚

しかし、
福沢諭吉の娘の結婚相手を、士族でないことを理由に断った、
という話には後日談があって、
福沢諭吉の娘は、その相手とは結婚できなかったものの、

その後、別の相手と結婚します。
そして、娘が結婚した、
その相手は、士族ではない小作農の息子だったのでした。

そして、
福沢諭吉は、その小作農の息子のことを、
とても気にいっていたのでした。

福沢諭吉の娘が結婚した婿は、福沢桃介

福沢諭吉が見込んでいた青年は、
福沢桃介といいます。

福沢諭吉の子孫のなかでは、
最も有名な人物で、
電力開発などの大事業を手がけ、
名古屋財界でとても大きな働きをしました。

福沢諭吉は、
娘の結婚相手を士族ではないから…という理由で断った過去があったにもかかわらず、
結局はその娘を、
貧しい小作農の息子でありながら、
聡明で将来有望な青年と結婚させたわけですので、

つまるところ、
福沢諭吉は、
やはり、生まれた身分よりも、個人の実力を評価していたことになります。

福沢諭吉の婿養子、福沢桃介の経歴

福沢桃介の経歴について紹介しておきます。

福沢桃介は、
1868年に、
現在の埼玉県の吉見町に生まれました。

福沢桃介の実家は、
岩崎家という小作農家でしたが、
慶應義塾に入塾し、

卒業するときに、
福沢諭吉から、
娘と結婚することを前提に
福沢諭吉の養子になることを認められました。

福沢桃介は、
実業界で大成功し、
福沢財閥とも言われるほどになります。

しかし、
福沢桃介の成功とは裏腹に、
福沢諭吉の娘と、
福沢桃介との結婚生活は決して円満なものではなかった、
と、言われています。

というわけで、
福沢諭吉の父親や母親や、
妻や子供、
娘の結婚相手についてのエピソードについて書いてみました。

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