戦前の訓導という職業
戦前の日本では、小学校の先生のことを、訓導(くんどう)と言いました。
現在では「教諭」と言いますが、これは戦後になってからの呼称です。
明治維新直後に、近代の学制は発足しました。
村にも小学校を作らなければならなくなります。
小学校をつくるのは、何かと大変でした。
まず校舎をどうするか、先生をどうするか、それから親が子どもを学校に入れたがらないといった問題もありました。
明治初期の小学校を調べてみると…
当初は、建設が間に合わないので、小学校の校舎として、庄屋宅や寺院などを使っていた例も多いです。
それから、先生になれる人を探さなくてはなりません。
当時は識字率も低く、人を教育できるほどの能力を持つ人材は、なかなかいませんでした。
明治の初めに学校の先生となったのは、元武士や僧侶といった人たちでした。
武士や僧侶は、江戸時代から難しい漢字をたくさん知っていましたので、人にものを教えるのには適任だったわけです。
戦前における、小学校教師という仕事
当初は、このように先生探しにも苦労していたのですが、やがて教育制度が整備されると、師範学校を卒業した者が学校の先生としてやってくるようになります。
師範学校は、学費が無償であるということで、実家は貧しいが頭は良い、といった子どもたちの多くが、進学しました。
師範学校は各県ごとに置かれていたので、多くの教員を養成することができました。
戦前の小学校の先生は、それほど高給ではありません。
しかし、村の知識人として慕われる存在でした。
校長先生になると、位階をもらったり、勲章をもらったりするようになる者もいます。
校長先生まで出世すれば、村の有力者の一人ですから、関係資料をあたれば、いろいろな記載が見つかるでしょう。
ご先祖様に、校長先生を勤めたという人がいらしたら、調査すれば、情報が得られるわけです。
教員一族の家系図作成は面白い
学校の先生というのも、親戚一同教員というパターンが多い職業のように思います。
私が小学校、中学校と習った先生には、親も教員だったとか、夫婦で教員をしているといった、教員一家の家系の方がいました。
教員家系の方であれば、きっとご先祖には校長先生を勤めたという方が、いらっしゃると思います。
こうした家系ならば、調査すれば、立派な家系図が仕上がるものと思います。
教員家系ならば、江戸時代のご先祖が武士や僧侶であった可能性が高まるので、近世以前の記録も多く残っているのではないでしょうか。
是非、調査してみることをお勧め致します。