幣原喜重郎と濱口雄幸はともに次官、大臣と同時に昇進を重ねた

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kabaldesch0 / Pixabay

幣原喜重郎と浜口雄幸、中学校以来の親友である二人の共通点はとても多い

幣原喜重郎と濱口雄幸は、
中学校、帝国大学と同級生で、
とても仲の良い親友でした。

幣原喜重郎も濱口雄幸も
ともに抜群の秀才であり、
優秀な成績で帝国大学を出て、

幣原喜重郎は外務省に入り、
濱口雄幸はは大蔵省に入りました。

そして、
二人とも総理大臣に就任しています。

この記事では
幣原喜重郎と濱口雄幸について書いてみます。

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幣原喜重郎も濱口雄幸も父親は武士ではない

幣原喜重郎と濱口雄幸の共通点といえば
いくつかあると思われますが、

家系図に関する事というと、
ともに、武士の出身ではないことがあげられます。

戦前の総理大臣は、
ほぼ全員が武士の家系の出身です。

農民出身の総理大臣というのは
ほとんどいません。

ちなみに、
戦後の総理大臣の家系というと、
農民出身者が多く、
庄屋身分の者が多いです。

先祖の身分ということでいえば、
濱口雄幸の父親は林業であり、
幣原喜十郎の父親は庄屋でした。

濱口雄幸は、生家は水口姓で、浜口家に養子に出ているのですが、
この濱口家は武士の家系です。

そして
幣原喜重郎の家系は、
庄屋ですが、代々学問好きな家系だったようです。

幣原喜重郎は外務次官、濱口雄幸は大蔵次官に、第二次大隈重信内閣で就任

幣原喜重郎は外務省で昇進を重ね、
第二次大隈重信内閣のときに、加藤高明外務大臣のもと、外務次官に就任します。

一方、
濱口雄幸は
大蔵省で昇進を重ね、専売局長官から逓信省に出向し、逓信次官となり、
その後、大蔵次官となります。

濱口雄幸が大蔵次官になったのは、
大正3年で、その時の総理大臣はやはり大隈重信。
大蔵大臣は若槻礼次郎でした。

ともに、
同時期に同じような地位にあったというのも共通点ですね。

幣原喜重郎は外務大臣、濱口雄幸は大蔵大臣に、第一次若槻礼次郎内閣で就任

そして、
幣原喜重郎は外務大臣に2回ついていますが、
外務大臣になったのは
大正13年の加藤高明内閣でした。

加藤高明は幣原喜重郎の妻の姉の夫という親戚関係もありました。

その後、第一次若槻礼次郎内閣でも外務大臣を務めています。

一方の、
濱口雄幸は
大正13年の加藤高明内閣で大蔵大臣に就任。
そして第一次若槻礼次郎内閣でも留任しています。

加藤高明内閣、若槻礼次郎内閣を通じても、
ともに外務大臣と大蔵大臣という地位にあり、
やはり似たような地位にあったのでした。

幣原喜重郎と濱口雄幸は
ともに民政党系でした。(厳密には幣原喜重郎は民政党に所属していませんでしたが)

濱口雄幸内閣の外務大臣で総理臨時代理を務めた幣原喜重郎は、戦後総理大臣となる

そして
昭和4年に濱口雄幸は田中義一内閣の後を受けて、
組閣の大命を受け、総理大臣となります。

濱口雄幸が外務大臣に起用したのは、
幣原喜重郎でした。

幣原喜重郎は、
2回目の外務大臣就任でした。

濱口雄幸の療養期間中は
幣原喜重郎は内閣総理大臣臨時代理を勤めます。

その後、
濱口雄幸はなくなり、第二次若槻礼次郎内閣となり、
幣原喜重郎は外務大臣に留任します。

時を置いて、
終戦後の昭和20年10月、
幣原喜重郎は総理大臣となったのでした。

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