内村鑑三の家系図と子孫!妻と結婚、子供は何人?娘は?息子はプロ野球コミッショナーの内村祐之!出身地や父親、母親は?
内村鑑三(うちむらかんぞう)。
無教会主義で知られる思想家の
内村鑑三。
内村鑑三の思想は、
現在でも学ばれる機会も多く、
明治や大正、昭和初期の日本人が、
どのようにキリスト教を受容していったのか、ということが分かります。
この記事は、
内村鑑三の妻や子供、息子や娘、
子孫の現在や家系図の話題を見ていきます。
内村鑑三の父親と母親、兄弟姉妹
内村鑑三の家系は、
群馬県高崎市にあった、旧高崎藩士の家系でした。
内村鑑三の父親の名前は、
内村宜之といいました。
内村鑑三の父親は、
高崎藩士でしたが、江戸に出てきていて、
内村鑑三が生まれ場所は、
小石川でした。
内村鑑三の母親は、
名前をヤソといいました。
内村鑑三は、
6人兄弟でしたが、兄弟は、
内村鑑三をのぞいて、みんな女性でした。
内村鑑三は、
長男として、将来の跡取りとして大事に
育てられていくことになりました。
内村鑑三の結婚歴!最初の妻は浅田タケ
内村鑑三の妻や結婚に関してですが、
内村鑑三は
3回結婚をしています。
つまり
内村鑑三の妻だった女性は、3人います。
内村鑑三の結婚歴について、
整理していきましょう。
内村鑑三は、
1883年に、浅田タケという方と結婚しています。
内村鑑三が安中教会を訪問した際に、知り合った方でした。
しかし、
最初の結婚生活は、わずか半年で終わり、離婚してしまったのでした。
内村鑑三の2番目の妻
内村鑑三の2番目の妻は、かず(加寿子)という名前の方です。
内村鑑三の2番目の妻、かずは、
内村家と同じく高崎藩士の横浜恕の娘です。
内村鑑三はアメリカから帰ってきたばかりの頃に、
かず、と出会いました。
1889年7月に妻と結婚しています。
1891年に、
内村鑑三の妻、かずはなくなってしまいました。
内村鑑三の3番目の妻
そして
内村鑑三は、1892年に3回目の結婚をしています。
内村鑑三の3番目の妻は、
旧岡崎藩士の家系で、判事をしている岡田透の娘でした。
名前は静 (静子)と、いいました。
内村鑑三?
では
内村鑑三の子供は何人いるのか
息子なのか娘なのかといったことを、詳しくみていきましょう。
内村鑑三の子供は
息子と娘が1人ずついました。
内村鑑三の子孫の家系図をおって、
子孫がどのような方なのかを見てみましょう。
内村鑑三 1861-1930
旧高崎藩士・内村宜之長男
札幌農学校、米国アマースト大、ハートフォード神学校に学ぶ
第一高等中学校舎監
ジャーナリスト
女子独立学校校長妻:内村タケ
旧姓は浅田妻:内村かず
旧高崎藩士・横浜恕の娘妻:内村静
明治7、東京、判事・岡田透の娘男:内村祐之(後継者)
女:内村ルツ子
明治27
実践女学校卒
内村鑑三の息子、内村祐之の家系図
内村鑑三の長男、内村祐之の妻や子供、家族についての
家系図を見ていきます。
内村祐之 1897-1980
内村鑑三長男
東京帝大医学部卒 医学博士
北海道帝大教授、東京帝大教授
東京府立松沢病院長
日本野球機構コミッショナー妻:内村ミヨ
明治36、東京、大館源太郎長女、新潟、久須美東馬養子男:内村篤さん
昭和13
慶大経済卒
第一生命勤務同妻:内村保子さん
昭和20、松崎勝太郎さん長女
女子学院卒長女:内村正子さん
大正14
女子学院、東京女子大各卒
イリノイ大教授・小倉義光さんと結婚二女:内村桂子さん
昭和3
東京女子大卒
新木諒三さんと結婚三女:内村博子さん
昭和5
東京女子大卒
東北大教授・大熊輝雄さんと結婚四女:内村智子さん
昭和6
東大英文科卒
堀井謄写堂常務 堀井仙太郎さんと結婚五女:内村紀子さん
昭和16
学習院大卒
工学博士・松平精さん長男、ソニー勤務・松平健さんと結婚
内村鑑三の息子の、
内村祐之(内村ゆうし)さんは、
医学者でしたが、
日本野球機構のコミッショナーをつとめられた方です。
内村鑑三の子孫の家系図の広がり
内村鑑三の子孫の家系図は、
内村鑑三の息子、
内村祐之さんの代から、大きな広がりを見せます。
内村祐之さんの五女の紀子さんは、
松平精さんの息子、松平健さんと結婚されています。
松平健さんの母親は、
真宗仏光寺派法主で男爵の渋谷有教、渋谷篷子夫妻の娘にあたります。
渋谷有教は、伏見宮邦家の孫にあたり、
また、渋谷有教の妻の渋谷篷子の姉は、大正天皇の皇后、貞明皇后なので、
内村鑑三の家系図は、
孫の代になると、皇室とも親戚になることが、わかります。
というわけで、
内村鑑三の妻や子供、息子や娘、
子孫の現在や家系図の話題を見てきました。