正岡子規の家系図と妻、子供、子孫の名前?父親?叔父は衆議院議員!

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lhadlock50 / Pixabay

正岡子規の家系図!妻と子供、父親と母親の名前は?子孫は養子?叔父は衆議院議員!

俳人、
正岡子規(まさおかしき)。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られる
正岡子規。

国語教科書では
必ず取り上げられる著名な俳人です。

正岡子規といえば
野球好きだったことでも知られていて、
キャッチャーをしていました。

それから
司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも登場しているのも、
話題になることもありますね。

この記事では、
正岡子規の父親と母親の名前と、
妻や子供はいるのかといった、
家系図や子孫に関係する事柄を整理していきます。

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正岡子規の父親は?先祖は愛媛の松山藩士!

正岡子規の家系は、
先祖をさかのぼると、
現在の愛媛県松山市に住んでいて、
代々の松山藩士としてつかえた家系でした。

正岡子規の父親の名前は、
正岡常尚。
馬廻役をつとめた松山藩士でしたといわれていますが、。

正岡子規の父親の禄高は、14石なのだそうです。

正岡子規の妹、律によると、禄高50俵との話もありまうが、

いずれにしても
正岡子規の家系は、
松山藩士のなかでは下級武士身分だったようです。

正岡子規の母親

正岡子規の母親の名前は
正岡八重といいました。

正岡子規の母方の祖父は
大原観山という人物で儒者であり
江戸湯島の昌平坂学問所の舎長や、松山藩藩校の明教館教授となった学者でした。

正岡子規の叔父は、衆議院議員や松山市長を務めた加藤恒忠!

正岡子規の母方の親戚は優秀な方が多いです。

祖父、大原観山の二男、大原恒徳は第五十二銀行支配人。
三男は大原観山の祖母の実家、加藤家を継いだ加藤恒忠。

加藤恒忠は
外交官から大阪新報社長となり、
その後政界に入り、
衆議院議員、貴族院議員、松山市長などをつとめた方でした。

四男の恒元は、養子に行って岡村恒元と名乗り、
三女の三重は、五十二銀行取締役の岸重崔に嫁いでいます。

正岡子規の妻と子供は?

正岡子規の妻や子供はいるのか、
といったことを見ていきましょう。

正岡子規は生涯を独身で過ごし、
妻はいませんでした。

それから、
正岡子規には子供もいません。

つまり
正岡子規には直系の子孫はいない、
ということになりますね。

正岡子規の妹、正岡律

しかしながら
正岡子規は、
正岡家の跡取り息子でしたので、

正岡子規の没後も、
正岡家は存続しています。

正岡子規には妹がいて、
名前を正岡律(りつ)といいました。

正岡子規の妹の律は
明治3年生まれで
共立女子職業学校に学んだ才女でした。

正岡子規の妹・正岡律にも子供は無く、養子を迎えた

しかし
正岡子規の妹は
陸軍軍人の恒吉忠道と結婚したのですが
すぐに離婚していて、子供もいなかったので、

養子をむかえて、正岡家を続けることにして、
正岡子規の母親の弟の息子である、
加藤忠三郎(正岡忠三郎)を養子に迎えました。

正岡子規の家系をついだのは、正岡忠三郎

正岡忠三郎は
1902年に、父親の加藤恒忠と母の、ひさ、の三男として生まれています。

正岡忠三郎の父親は、
衆議院議員、貴族院議員をつとめた加藤恒忠で、
母親は正岡子規の叔母でした。

正岡忠三郎は、
第二高校の理科を卒業し、
京都帝国大学経済学部に進学。
京大を出てからは、阪急電鉄に入社しています。

正岡子規の子孫の家系の現在

正岡忠三郎の妻は
正岡あや子さんといいます。

京都大学教授で心理学者の野上俊夫の娘でした。

正岡子規の家系の跡継ぎとなった、
正岡忠三郎も文学と縁のあった方であり
中原中也と交際をもったというエピソードがあります。

正岡忠三郎の子供には

正岡浩さんと、正岡明さんがいます。

正岡子規の直系の子孫は、途絶えていますが
正岡子規の家系図はこのような形で続いているのでした。

というわけで、
正岡子規の父親と母親の名前と、
妻や子供はいるのかといった、
家系図や子孫に関係する事柄を整理してきました。

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