蛭子能収さんと家系図調査
蛭子能収さんのファミリーヒストリーです。
今回の放送の内容を、家系図作成調査の知識をまじえながら、まとめてみたいと思います。
長崎市出身の蛭子能収さんのお父さんは、漁師をしていました。
蛭子鹿之助さんといいます。
番組では、実家の兄・蛭子孝助さんを取材しています。
すると、漁の様子を撮影した60年前の貴重なフィルムがありました。
こうしたものが残されているのは、とても貴重ですね。
蛭子家のルーツは徳島県
蛭子能収さんの父・鹿之助さんは、漁師として船長まで務めていたといいます。
父・鹿之助さんは、阿波船団と呼ばれた集団を率いていたのです。阿波船団という名前が示すとおり、その多くは徳島県の出身者でした。
蛭子能収の父・鹿之助さんの故郷も、徳島県にあります。
番組取材班は、現在の海部郡美波町にあたる日和佐を訪れました。
蛭子という苗字の由来
日和佐は、恵比寿さまが信仰されている町です。
他にも日和佐には、恵比寿の名が付いた地名が多くありました。
日和佐八幡神社には、古事記に登場する海の神「蛭子」が祀られています。
どちらとも漁業の神様なので、蛭子と恵比寿さまを同一視したといいます。
番組では、蛭子能収さんの遠縁に当たる方を取材しています。
日和佐の町で、蛭子姓を名乗ったのは蛭子能収さんの家だけだったそうです。
通常、同じ村では多くの家が同じ苗字を名乗っているものです。
全国的に珍しい苗字であっても、その土地には同性の方がたくさん住んでいる、といったケースが多いです。
同じ苗字の家がないということは、蛭子という苗字は明治時代初期につけられた苗字なのだと思います。
このように書くと、「苗字は明治時代のはじめにつけたものなのだから当たり前だ」と思う人もいるかもしれません。
江戸時代の庶民には、苗字はなかったと理解している方が多いと思います。
実はこれは事実ではありません。
苗字を公称できなかったというだけで、私称するぶんには問題なかったのです。
現在名乗っている苗字は明治初期に名付けられたものではなく、もっと古くから名乗っている苗字であることのほうが多いのです。
参照記事
江戸時代に庶民は苗字を名乗れたのか?
蛭子家の戸籍調査から
父親の鹿之助さんが出生したという家は、今も残されていました。
番組では蛭子能収さんの親戚の方とともに、戸籍謄本をもってその家を見にきていました。
戸籍謄本は書式から、昭和23年式戸籍と分かります。戸籍には、各年代ごとに書式に特徴があるので、詳しい人が見ればいつの時代のものか分かります。
徳島県から長崎県へと移った蛭子家
鹿之助さんは、明治38年に蛭子家の三男として生まれ、大きくなると漁師になりました。
日和佐の漁師たちは、明治時代までは近海で漁をしていましたが、大正時代にエンジンがついた船が導入されると、遠海に出て新たな漁場を探りにいきます。
そして瀬戸内海を抜け、東シナ海で漁業をしていたのです。
昭和に入ると、日和佐の漁師たちは東シナ海に近い長崎県に移住しました。
蛭子能収さんの父・鹿之助さんも移住しました。
徳島県から長崎市に移り住んだ阿波船団の漁師たちは、長崎港の一角に、700人ほどの小さな街を築きました。
このように、ある地域にまとまって、同じ地域から移住するケースというのがあります。
江戸時代であれば、新田開発にともなう移住が思い浮かぶと思いますが、明治時代以降もこうしたケースはよく見られます。
参照記事
苗字分布から分かる土地の歴史
蛭子鹿之助さんの軍歴証明書
太平洋戦争が始まると、阿波船団の漁師たちは、船と一緒に軍に徴用されてしまいます。
太平洋戦争中は、漁船がまるごと軍に徴用されてしまうといったことがよくありました。
番組でしめされた、〈鹿之助さんの軍歴〉には「佐世保防衛隊業務嘱託ヲ命ズ」とあります。
これは軍歴証明書といわれるものです。
軍歴証明書は、旧日本軍に所属された方の記録が記されています。
軍歴証明書については、以下の記事を参考にされてください。
一般的に、蛭子能収さんのお父さんのように軍属であった方は、それほど多くの記録が残っていないようです。
そして終戦から2年がたって、蛭子能収さんが生まれました。
鹿之助さんは、戦後も漁師として遠洋漁業で活躍しました。
今回のファミリーヒストリーの感想
今回のファミリーヒストリーは、親戚や漁業関係者への聞き取り調査が中心であり、それほど高度な調査はおこなわれなかったように思います。
いつものように、「どこからこんなものを調べだしてきたのだろう?」といったようなものはありませんでした。
また、蛭子さんのお父さんだけにしか焦点があてられていなかったのも、残念な感じがしました。
家系調査という点からも、番組の構成といった点からも、どちらとも物足りない内容だったと思います。