竹中直人さんの実家と先祖とファミリーヒストリー

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padrinan / Pixabay

竹中直人さんと、家系図の調べ方

竹中直人さんのNHK総合テレビ『ファミリーヒストリー』です。
今回もいつものように、家系図サイトならではの専門的な知識を動員して、番組でおこなわれた調査方法を分析していきたいと思います。

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竹中直人さんの母方先祖

まず、番組では竹中直人さんの母方の先祖を調べています。
竹中直人さんは、母の先祖について、「本当の故郷は長崎だ」ということを聞いていたくらいで、他には何も知らないといいます。
番組では、早速、五島列島で最も大きい島「福江島」を訪問調査していました。

なぜ、「福江島」を訪ねたのかというと、戸籍にそのように記載がされていたからです。
番組制作にあたり、先祖の戸籍を取得しますから、戸籍を見れば、先祖の本籍地が分かるのです。

「先祖の本籍地を知る」というのが、先祖調査ではとても重要です。
これを知らずして、江戸時代以前の先祖を調べることはできないので、必ず調べておきましょう。

参照記事
先祖の職業の調べ方/本家の位置を調査しよう!

歴史資料館での分限帳の調査

五島列島に渡った、番組取材班は、歴史資料館を訪れます。
そこで「五島福江藩士分限帳」を閲覧しています。
「分限帳」とは武士の名簿のようなものです。
先祖が武士であれば、このように分限帳を調べることになります

とはいうものの、「分限帳」を調べるのは容易ではありません。
番組のように、藩がおかれていた現地まで行き、歴史資料館のようなところを訪ねないと閲覧できないケースが多いです。
現地まで行かないといけないので、時間も費用もかかりますね。
また、分限帳調査には、ほかにもいろいろと難しい点もあります。
それについては、以下の記事をご覧ください。

参照記事
分限帳の調査

禄高について

「五島福江藩士分限帳」によると、「25石 長谷川平三郎」と書かれていました。
長谷川平三郎は、竹中直人さんの母方の高祖父にあたる人物です。
「25石」とあるのは、禄高のことです。
多ければ多いほど、給料が多いわけです。
25石というのは、藩士のなかでは少ないほうだと思います。

また、番組で移っていた分限帳は、筆書きで古文書特有のくずし字で書かれていました。
「くずし字」は、特別な訓練をしていないと読むのが難しいですが、番組で写っていたものは、癖がなく、読みやすいものでした。
このように、先祖調査では古文書と向き合うことも多いです。

絵師だった先祖

その後、郷土史の調査によって、竹中直人さんの高祖父・長谷川平三郎は、絵師だったことが分かりました。
「五島編年史」にその記載があります。
それによれば、長谷川平三郎は福井の生まれで、京都に出て、そこで五島藩主に才能を認められ、藩に召し抱えられたとのことです。

古地図調査で、先祖の居住地を知る

番組では、五島家当主とともに、長谷川家の武家屋敷跡を訪れていました。
なぜ、先祖の居住地が分かったのかというと、城下町の古地図を調べたからだと思います。
「城下町の古地図」を調べれば、どこに誰が住んでいたのかといったことまで分かります。

また、五島家当主の方が「竹中直人さんの先祖の屋敷の敷地は250坪で、これだけの敷地を持つ藩士は珍しく、いかに藩から厚遇されていたのかが分かる」と言っていました。
このように、屋敷の面積や位置関係をみれば、藩のなかでの階級まで分かるのです。
武士の先祖をお持ちの方は、是非「城下町の古地図」を調査されることをおすすめします。

参照記事
城下町の地図調査

明治維新を経て

その後、明治維新を経て、竹中直人さんの曽祖父・清治の代には、代書人となります。
代書人とは、公的文書を作成する業務を受け持った人たちです。
現在の司法書士・行政書士にあたります。

竹中直人さんの祖父・正直(まさなお)は、明治15年に生まれました。
正直は、長崎に出て貿易の仕事をします。
第一次大戦中には、戦時景気で、生糸の貿易で大儲けします。
番組では、当時住んでいたという町の地図を示していました。

しかし、事業がうまくいったのは一時的なもので、第一次大戦が終わると、事業は傾いてしまいました。
一家は長崎から横浜へと移ります。
この土地で、竹中直人さんの母・芳枝は育つことになります。

竹中直人さんの父方の家系

番組では、竹中直人さんの父方の先祖も探っています。
父方のルーツは、青森県にあります。
青森県での調査によって、「明治5年壬申年由緒書」という武士の家系の記録をあたっています。

番組のナレーションで「武士から足軽までの記録」とありましたが、この表現はやや気になりました。
というのは、「足軽」は武士のなかに含まれるものと考えるほうが一般的だからです。
「武士から足軽までの記録」という表現は、いわば「軍人から下士官までの記録」のような表現ですので、違和感があります。
武士の階級については以下の記事をご覧ください。

参照記事
足軽は士族なのか?

藩に提出した由緒書

竹中弥十郎というのが、竹中直人さんの高祖父の名前です。
「明治5年壬申年由緒書」には、「卒 竹中弥十郎」とあります。
竹中弥十郎は、弘前藩の奉公人で、掃除係だったといいます。
それが、明治維新後に「並卒」という足軽身分に出世したそうです。
「奉公人」というのは、武士身分ではないのですが、「足軽」であれば、武士身分として扱われるのが通例です。

参照記事
武家奉公人という身分

戸籍に記された本籍地

番組で示された明治19年式戸籍には、以下のような記載がありました。
〈戸主:竹中信金 父弥十郎二男〉
そして、本籍地は「青森県西津軽郡本蓮村」となっています。
武士の子孫であるのに、城下町を本籍地としていないのは疑問に思われますが、以下の事情があるようです。

弘前藩では、廃藩置県後に「帰田法」という政策がとられました。
「帰田法」によって、城下に住んでいた武士は、農村に土地をもらい移住します。
竹中直人さんの先祖も、帰田法によって、農村に移住したのではないでしょうか。

そして竹中直人さんへ

こうして農民となった竹中家でしたが、祖父の代に横浜に出てきます。
そして、横浜という土地を介して、母方の家系との接点が生まれます。
横浜市の職員となった、竹中直人さんの父・博美さんが、竹中直人さんの母となる芳枝さんに出会い、結婚したのでした。

今回のファミリーヒストリーの感想

今回のファミリーヒストリーは、かなり盛りだくさんの内容でしたね。
竹中直人さんのように、武士の先祖を持っていると、やはり調べやすいといえます。
番組でおこなわれた、分限帳・城下町の古地図・由緒書の調査などは、武士の先祖を調べるうえでは、必須の調査となりますので、とてもためになったと思います。
それでは、次回の放送も楽しみにしたいと思います。

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武士の先祖の調べ方

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