小倉智昭さんの先祖を調べる
2016年6月16日放送のNHK総合テレビ『ファミリーヒストリー』では、フリ-アナウンサーの小倉智昭さんの家系を取り上げていました。
小倉智昭さんは、「父から先祖のことについて特に聞いていない」と言います。
番組取材班は、毎回こういったところから取材を始めています。
どのような調査方法で、番組を制作しているのか、とても気になりますね。
そうした番組作りの裏側に迫ってみたいと思います。
香川にルーツがあった小倉智昭さん
小倉智昭さんの父・小倉勇さんは、明治41年に台湾で生まれました。
勇さんの父(智昭さんの祖父)は、小倉五郎平さんといいます。
小倉五郎平さんは、香川県丸亀市の出身で宮大工をしていたのですが、農家の娘であるトキさんと、駆け落ちをしてしまいます。
二人は、台湾で一旗上げようと思って、台南市に移住します。
そして、二人のあいだにできたのが、勇さんということです。
先祖を調べるには、まず戸籍謄本
このあたりのことは、戸籍を調べれば分かります。
番組取材班は、小倉智昭さんから戸籍請求のための委任状を書いてもらい、それを役場に提出し、戸籍を入手したのでしょう。
戸籍を見れば、小倉智昭さんの父・勇さんの出生地や本籍地、あるいは小倉智昭さんの親族関係が一気に分かるので、『ファミリーヒストリー』を制作する上で、まず初めに手をつけるべき調査なのです。
そして、戸籍調査によって分かった親族をあたり、取材協力をするのです。
番組制作に協力してくれる親族が見つかったら、その方を取材し、先祖に関する情報を聞き出せるわけです。
聞き取り調査を徹底しているのが、『ファミリーヒストリー』の特徴です。
その後、小倉智昭さんの父・小倉勇さんに焦点をあてて、番組は進みます。
小倉勇さんのファミリーヒストリー
小倉勇さんは、勉強が好きで成績優秀でした。
しかし、実家が貧しかったのです。
といっても、当時は大半の家が貧しかったので、小倉家もその例外ではなかった、ということだと思います。
小倉勇さんは、小学生でありながらも働いて学費を稼いだといいます。
旧制中学に進学したものの、学費が払えなくなってしまったので一年で退学してしまいます。
当時は、旧制中学に進学しても学費が続かないで退学した生徒が随分いました。
戦前の旧制中学については別記事にまとめたものがあるので、よかったらご覧ください。
参照記事
旧制中学について
不屈の精神で進学
しかし、小倉勇さんは諦めませんでした。
働いて学資を貯めて、また学校に入りなおします。
そして台湾第一工業学校に入学します。
卒業するときには、答辞を読み、北白川宮より賞状をもらったといいます。
当時の新聞に、そのことが掲載されていたのを、番組取材班は台湾の図書館で見つけました。
これを見つけるのは、とても大変だったと思います。
事前に取材して、何か聞いていたのかもしれません。
台湾総督府専売局に入る
学校を卒業すると、台湾総督府専売局に入ります。
現在でいうところの公務員になったわけです。
台湾総督府専売局の資料は、現在も大切に保管されておりました。
小倉勇さんの書いた履歴書が見つかったのです。
それによると、専売局では職工をしていたそうです。
『ファミリーヒストリー』の調査能力に脱帽!
その後も、向学心に燃える小倉勇さんは、さらに上級の学校に進学します。
台南高等工業学校に入学します。
こちらは現在、国立成功大学という名称の大学になっています。
番組取材班は、在学中の写真と成績表を見せてもらいました。
台湾への出張調査で、こうした内部資料を閲覧できるのは、豊富な資金力と信用があるNHKならではでしょう。
今回の台湾での調査は、相当なものだと思います。
数千万円単位の製作費があれば、可能というレベルの調査ですね。
小倉智昭さんの母方の先祖調査
そして、番組は小倉智昭さんの母方のルーツへと移ります。
小倉智昭さんは、母方の祖父について「鹿児島県出身の新聞記者で、売れない作家だったようだ」と話していました。
母方の玉利家についても番組取材班は、戸籍を入手し、早速、親族宅へと向かいました。
このように親戚を探すのが、家系調査の基本的な作業の一つです。
玉利家の親族は簡単に見つけられました。
それは、玉利家の戸籍に記されている最も古い本籍地に、玉利家の子孫が住んでいたからです。
子孫の方は、小倉智昭さんの高祖父の弟の曾孫にあたる方です。
その方に、小倉智昭さんの高祖父が住んでいたという屋敷跡を案内してもらい、約300坪くらいあったと話しました。
さらに番組取材班は、地元の図書館で郷土史を調べます。
すると、玉利家の先祖のことも書かれていました。それによると、玉利家の先祖は地元の有力な農民であったようです。
参照記事
郷土史から先祖を調べる方法
母方の祖父・玉利伝十を調べる
小倉智昭さんの母方の祖父は、玉利伝十といいます。
明治19年(1886年)に鹿児島県で生まれました。
番組取材班は、玉利伝十の孫を取材し、聞き取り調査をおこないます。
すると、一族の家伝を記したような本を持ってきてくれました。
あらかじめ、こうしたものを作ってくれていると、調査をする上で助かりますね。
それによれば、玉利伝十は明治36年(1903年)に慶應義塾商業学校に入学した、とあります。
慶應の同級生に高名なジャーナリストである野依秀市がいて、彼の経営する『実業之世界』の記者として活動しました。
『実業之世界』の記者として、孫文に取材したという記録が出てきたのには、小倉智昭さんもビックリしていました。
その後、『実業之世界』から離れて鹿児島に戻り、独立します。
この頃、小倉智昭さんの母・妙子さんが生まれています。
鹿児島では、玉利紹堂と名乗り、郷土出身の政治家にインタビューをまとめあげるなど、活躍をします。
原口泉さん登場!
そこで登場したのが、鹿児島県立図書館長の原口泉さんです。
原口泉さんは、以前にも加山雄三さんのファミリーヒストリーで、鹿児島城下の地図を見せてもらうシーンにも出ていましたね!
原口さんは「玉利伝十は極めて重要な仕事をした」と評価していました。
参照記事
加山雄三さんの家系図とファミリーヒストリー
台湾に移動した玉利伝十
その後、玉利伝十の一家は台北に引っ越します。
そこで台湾日日新聞の記者として、勤務します。しかし、伝十は若くして亡くなってしまいます。
そこで、小倉智昭さんの母・妙子さんが看護婦として働き、家計を支えました。
小倉智昭さんの両親の出会い
看護婦として働いてきた病院に入院してきたのが、小倉勇さんでした。
そこで二人は出会ったのです。
昭和13年(1938年)に二人は結婚します。
私の調べたところによると、この頃、小倉勇さんは台湾総督府専売局台北南門工場の技手をされていたようです。
しかも位階をもらっていて、正八位ということですので、すごいですね!
参照記事
位階制度について
太平洋戦争におけるエピソード
その翌年、台湾総督府から日本鉱業に転職します。
そして太平洋戦争になって、海軍に徴用され、石油関係の技術者としてボルネオに派遣されました。
戦争が激しくなると、内地に帰還するための船が用意されました。
しかし、小倉勇さんは、船に乗るのを断ったのです。
もっと若い人を乗せてやれ、という考えでした。
これが、結果的には小倉勇さんが命拾いすることになりました。
その船は、連合軍によって撃沈されてしまったのです。
小倉勇さんは、ボルネオ山中に退避し、敗戦を迎えます。
その後、収容所生活を経て、日本に帰り、家族と再会を果たします。
その数年後、小倉智昭さんが生まれることになります!
今回の『ファミリーヒストリー』は?
さて、今回のファミリーヒストリーは、かなり濃密だったと思います。
徹底した番組の調査能力に、とても驚かされました。
また、こうした取材に協力してくれた方が多くいたのも良かったです。
小倉智昭さんも、お父さんのまったく知らなかった一面を知ることができて、とても良かったと思います。
特に、戦争中のエピソードについては、「まったく聞いたことがない」と小倉智昭さんは言っていました。
「自分の胸に秘めておきたかったんじゃないか」と感慨深げに語っていたのが印象的でしたね。
『ファミリーヒストリー』という番組があって良かったと、心から思いました。