萬田久子さんの実家とファミリーヒストリー

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geralt / Pixabay

萬田久子さんの先祖調査

女優・萬田久子さんの『ファミリーヒストリー』が放送されました。
今回の放送も、当サイトならではの家系図作成の知識をまじえて、番組の調査内容を分析していきたいと思います。

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萬田久子さんの実家は大阪にあるが…

萬田久子さんは、大阪生まれです。
実家は大阪にあるわけですが、大阪にルーツがあるわけではありません。
大阪には、全国各地から多くの人が出入りしていたので、実家が大阪にあったといっても、先祖のルーツがそこにあるわけではないのです。

番組の調査によれば、萬田久子さんの先祖のルーツは、愛媛県川之石にあります。
これは戸籍を調べれば分かることです。川之石は漁業が盛んな町です。

先祖のルーツを調べたいということであれば、まずは戸籍の調査をされることをおすすめします。

参照記事
戸籍調査から家系図を作成する方法

愛媛県川之石の萬田家

番組取材班が現地調査をすると、萬田久子さんの曽祖父は、漁師をしていたことが分かりました。
しかし、曽祖父は明治42年、海難事故にあってしまったといいます。
こうして、一家の働き手を失った萬田家は、とても苦労することになってしまいます。

祖父・萬田要蔵

こうした境遇のもと、萬田久子さんの祖父・萬田要蔵は、萬田家唯一の男子として、責任感をもって一家を支えました。
萬田要蔵は、大阪に出て印刷工場で働きはじめました。
結婚もして、子宝にも恵まれます。
萬田要蔵は、独立して印刷工場を経営するまでになります。
しかし、太平洋戦争へと暗い時代に向かうなかで、印刷業界の統合がすすめられ、ついには戦災で工場が消失してしまったのです。
そして戦後まもなく、要蔵はなくなってしまいます。

萬田久子さんは、祖父が印刷工場を営んでいたことは知っていたといいますが、それ以前のことはまったく知らなかったそうで、とても驚かれていました。

萬田久子さんの母方の家系

その後、番組は萬田久子さんの母親のファミリーヒストリーへと、話題は進んでいきます。

萬田久子さんの母は、孝子といいます。
孝子は、大阪市大正区で材木屋に勤務する奥地保市・きり夫妻の三女として生まれました。
戦時中に、母・きりの故郷である三重県井田村へ疎開し、終戦後も井田村で暮らしました。

このように戦時中に疎開する場合には、母方の実家を頼る事が多かったのでした。

萬田久子さんのオシャレは母親譲り!

三重県井田村は和歌山県との県境にあったので、孝子は、和歌山県新宮市にある女学校に進学しました。

新宮市は、和歌山のファッション文化の中心地であり、孝子は、オシャレに目覚めていきます。
もともと、高身長でスタイルが良かった孝子が、ファッションに興味を持つのは自然ななりゆきでした。
洋裁学校へ進学し、その後は新宮市の仕立て屋さんで働き始めました。
昭和32年、孝子は大阪に住む男性と見合いをすることになり、結婚しました。
その相手が萬田久子の父親である萬田栄久だったのです。

萬田久子さんの父と母

結婚して、昭和33年に萬田久子さんが生まれます。すると、父はさらに収入を増やすために、それまでの飲料販売の仕事をやめて、中央卸売市場での運送業を始めました。
孝子も家計を助けるため、近所の人たちから注文を受けて洋裁の仕事を続けていたそうです。
萬田久子さんが子どもの頃に着ていた洋服は、すべて母の手作りでした。

先祖を調べることの面白さ

その後、萬田久子さんが成長し、ミス・ユニバース日本代表に選ばれ、芸能界へ入ったことは、みなさんご存知な通りです。
ファミリーヒストリーを見ると、萬田久子さんの美貌は母親譲りだったことが分かります。
このように考えると、家族の歴史を調べることはとても面白いものだなと思います。
自分の持っている才能が、遠いどこかの先祖から受け継がれたものであるのかもしれないのです。

萬田久子の夫の職業は?ブランドはユニクロ?息子の大学は?水上瞳と結婚?

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